2004年2月日記帳



[29日(日)] 閏年、2月の最終日、息子とのしばしの別れ

 昨日の鳥栖青年会議所との会談を期に、総務省統計局のHPを開いて、全国都道府県、市町村の行政基盤というか財政力指数(基準財政収入額を基準財政需要額で除したもの)を調べてみた。佐賀県の中では鳥栖市が佐賀市を抜いてトップであるが、佐賀県としては全国で36位であり、地方交付税を歳入決算総額で割った値は佐賀県が全国で2位で、地方交付税に対する依存度が高い。道州制になった時の財政自立度のような指標を見つけられないかと感じた。

 昼は近くのレストランで息子一家と会食した。息子が明日からマレーシァの子会社へ出向になるとのことで、その様子を色々聞いた。クアラルンプールあたりも数年前から様相を一変しているらしく、目下立て続けに石炭火力発電所を受注、建設しており、そのTechnical Directer を命ぜられたものらしい。子供が小さいので、今後いろいろと問題がありそうである。

 念願のミャンマー大周遊のフォトギャラリーの作成が始まった。HPの容量制限からまずドイツ北東部歴史物語15日間の写真120枚を削除した。はじめに誤ってフォトギャラリー全部が削除されぎょっとしたが、無事復元できた。更に前に作成した地図が見にくいので再製し、写真の一部明るさを再調整してからフォトギャラリーの作成が順調に始まった。しかし111枚もあるのでしばらく時間がかかりそうである。

 

[28日(土)] 鳥栖青年会議所と道州制について懇談

 ミャンマーの旅行写真660枚のうち、最低限必要と思われる全体の1/5以下の112枚をピックアップし、更にそれらを1枚あたり50kB以下に圧縮した。これらの写真を利用し、多少の解説を付加してフォトギャラリーの原稿作成の準備ができた。あとは暇をみて作業すればよい。

 午後から佐賀県の鳥栖青年会議所ベストシティ委員会の委員長と副委員長の申し入れがあり、日本工業倶楽部の談話室で道州制について懇談した。鳥栖は九州の中では交通の要衝であり、自立した中核都市をめざして九州の州都になることを目指しているようであった。

 道州制推進連盟からは3名出て、連盟のできるまでのいきさつ、現在の課題等説明した。我々の方針は地方から道州制を実現することであり、できれば鳥栖青年会議所の方もメンバーとなっていただき、協力関係をつくりたいと申し入れた。終わってから先方の名刺に書いてある鳥栖JCのHPを開いてみたら、今月初めに大前研一氏が訪れて激励しているようであった。

 道州制や市町村合併では肝腎の経済的自立を無視して、感情的にどこと一緒になるかが話題になるが、一番大切なことは、国から支援がなくなる前に、経済的自立体制を創り上げることであり、その為には支出を減らし、収入を増やす工夫が必要であり、そのためには民間の経営感覚を生かすことが大事である。もともと青年会議所は平成2年に道州制を提案しており、全国的な団体として今後協力関係を深めていきたい。

 

[27日(金)] フォトギャラリーの編集に手間取る

 ミャンマー旅行の写真は660枚も撮ってしまった。スライドショーならそのままでよいが、ホームページのフォトギャラリーに載せるには、容量制限から1/5程度に枚数を抑える必要がある。このためどれをのせるか選択が必要で、このため1日目から7日目の途中まで選択した。ただし中には自分で撮っておきながら何処の写真か分からなくなり、地球の歩き方や旅名人ガイドブックと見比べながら調べる始末で時間がかかり、1日では選択が終了しなかった。

 電子メールでは色々な所から連絡が入るが、構想日本のメルマガで、ひとつは3月8日の「道路関係四公団民営化問題を考える」シンポジゥム、も一つは3月30日の「第81回JIフォーラム・外国人から見た日本の政治」の案内があり、出席者が面白そうなので参加を申し込んだ。

 テレビでは北朝鮮の核問題をテーマとした6ヶ国会議がまとまらず、1日延期することになったという。北朝鮮もいいかげんで手を上げたらよさそうなものなのに、何故か意地を張っているように見える。又8年もかかったオーム真理教の麻原こと松本被告に死刑の判決が下った。20人もいた弁護士がやめて、上告には新たに5人の弁護士がつくという。いずれも税金の無駄遣いで、それにも関わらず教団の信者が未だに1600人もいるとは驚きである。信仰とは理屈を超えた思いこみであるだけに始末が悪い。

[26日(木)] ミャンマー旅行の疲れがでた

 昨日旅行の概要をまとめて報告したが、昨日あたりから旅行の疲れがでてきたようである。いつもならスポーツセンターへ行くのにその元気がでなかった。今日も郵便物を片づけたり、郵便局へ会費の払い込み、毎晩飲むワインの仕入れ、図書館へ予約図書の受取など行っているうちに、工業倶楽部の講演会へ出掛けるのが面倒になりやめにした。あとはフォトギャラリーのためのミャンマーの地図の作製、写真のピックアップなどしているうちに日が暮れた。

 ミャンマー旅行自体は念願の旅行であり、上座部仏教の見事な遺跡の宝庫に接する事ができたのは幸せであった。しかし今回の旅行は体力的にかなりきつかった。ただ85、82、78才と3人も年長者が元気にしているので、頑張らざるを得なかった面もあった。

 一つは朝早い出発があったことで、朝5時出発が1回、朝食後6時出発が2回あった。普段年寄りにしては朝寝坊で8時頃まで寝ているものにとっては辛かった。次に階段の多いことである。ポッパ山の770段を筆頭に、ピンダヤの洞窟ではエレベーターの故障で300段位の階段を登り、その他各所で階段を登ったが、殆ど裸足を強制され、足の裏の痛さと相まって、よくぞ登ったものである。

普段の交通は日本からの中古大型バスで、一人2席確保され、快適であったが、ヤンゴンやマンダレーのような大都市以外は道路が悪くかなり振動があり、歩いていなくても万歩計が動作する程であった。更にマンダレーヒル、サガインヒル、チャイティーヨではトラックバスと称する小型トラックの荷台で、猛スピードで坂道を昇降し、しがみついているのがやっとであった。又チャイティーヨでは最後に駕籠にのったが、急坂をのぼるので頭を抑えているのに草臥れた。反面下りを歩いたが、足ががくがくになり、夜ホテルで足のマッサージを頼む羽目になった。

 以上は体力的にきつかった例の一部であるが、素晴らしい寺院やパゴダを直接みたり、ミャンマーの人々の素朴だがやさしい心遣いに接し、困難をものともせず何とか乗り切れたのであろう。

[25日(水)] ミャンマー大周遊11日間の概要

 今月の12日から22日にかけて出掛けたユーラシア旅行社のツアーで、参加者は男女各9名、内夫婦2組で、85才以下高齢者が多かった。添乗員1名、現地ガイド1名の総勢20名でミャンマーの仏教遺跡の宝庫を一巡した。詳細は追って別途HP「続々 GOLDEN AGE」に譲り、ここには要点のみ記す。

(1)2月12日(木) <成田→バンコク→ヤンゴン>
  10時55分成田発のJALで約7時間、15:50バンコク着、3時間半待
  ってミャンマー国際航空で約1時間、現地時間19時55分ヤンゴン
  着、ヤンゴン市内ホテルで夕食、宿泊。

(2)2月13日(金) <ヤンゴン→ヘーホー→カッグ→インレー湖>
  早朝5時ホテル発、6:30ヤンゴン発マンダレー航空にてマンダレー
  経由8:35ヘーホー着、大型バスで移動
 *ヘーホーマーケット:予定外だがたまたま開催日
 *カッグ遺跡前のレストランで中華の昼食
 *カッグ遺跡:12世紀以来のパゴダ(仏舎利塔)の数は2500以上
 *パオ族集落:高床式竹製の家に案内される
 *インレー湖ホテルで夕食(中華)、宿泊

(3)2月14日(土) <インレー湖→ピンダヤ>
 *5人ずつ4隻のボートでインレー湖観光
  水上パゴダ、水上マーケット、ガーペチャウン僧院を廻る
 *ホテルで昼食、ミャンマー美女の結婚式あり
 *ピンダヤ洞窟:150mの鍾乳洞内に8094体の仏像
 *ピンダヤのホテルにて夕食後宿泊

(4)2月15日(日) <ピンダヤ→ポッパ山→バガン>
  早朝6時ホテル発バスで終日悪路をドライブ
 *9:40順調過ぎて早い昼食
 *メッティーラのナガヨンパゴダ:日本人の寄付で修復
 *ポッパ山:777段の急階段を裸足で若い女性に支えられて登る
 *18:15バガンのホテル到着、夕食時人形劇や舞踊ショーあり

(5)2月16日(月) 終日バスでバガン市内観光
 *マヌーハ寺院:タントン国王マヌーハの建てた寺院
 *シュエサンドーパゴダ:5層のテラスあり、周囲の眺め良し
 *シュエズィーゴンパゴダ:黄金の広大なパゴダ
 *アーロードービー寺院:願いが叶う寺院として花を捧げる
 *ティーローミンロー寺院:東西南北に表情の異なる仏像が1体ず
  つある
 *タラバー門:9世紀の城壁の跡、両側に兄妹のナッツ神祀られて
  いる
 *ダビニュ寺院:12世紀建立、高さバガン随一の65m
 *イラワジ川縁のレストランでミャンマー料理の昼食
 *漆工場見学
 *アーナンダ寺院:バガンの代表的寺院で東西南北に高さ9mの立
  仏像
 *ダマヤンジー寺院:バガン最大だが王の暗殺で未完成のまま
 *ミンガラーパゴダ:バガン王朝最後の作でテラスからの眺め抜群
 *イラワジ川クルーズ:イラワジ川に沈む夕陽の鑑賞18:00頃
 *野外レストランでショーを見ながら中華の夕食、バガン連泊

(6)2月17日(火) <バガン→マンダレー→アマラプラ→マンダレー>
  早朝バガンより空路25分でマンダレー到着、まずアマラプラへ
 *マハーガンダヨー僧院:国内最大級、1000人の修行僧が食事
 *ウーペイン橋:チーク材の1.2kmの橋。その後マンダレーに戻る
 *マハムニパゴダ:マンダレー最大金ぴかのバゴダ、金箔を貼る
 *市内栄新餐庁にて中華式昼食
 *マンダレーのホテルにチェックイン、しばし休息
 *旧王宮:3.2km四方、城壁8m高、堀幅70m、森の中金ぴかの建家
 *シュエナンドー寺院:真っ黒な、華麗な彫刻の木造建築
 *クドードーパゴダ:729の小パゴダに囲まれた白亜のパゴダ
 *マンダレーヒル:トラックバスで登頂、市内と落陽を眺める
 *スワンホテルでミャンマー料理、ビルマの竪琴と民族舞踊
 *マンダレーのホテルに宿泊

(7)2月18日(水) <マンダレー →サガイン→ミングォン→マンダレー>
 *カウンフムードパゴダ:サガイン最大、高さ56m白色のおっぱい状
 *サガインヒル:トラックバスで頂上へ、パゴダと日本人慰霊碑あり
 *マンダレー市内に戻り、王宮西側でタイ料理の昼食
 *ゼージョーマーケット:マンダレー最大の日用品市場
  *ミングォン:船で約1時間、世界一を目指して中断したパゴダと
         90トンもある世界で二番目に大きい釣り鐘を見る
 *マンダレーに戻りホテルで鍋料理の夕食、連泊

(8)2月19日(木) <マンダレー→ヤンゴン→バゴー>
 *早朝空路マンダレーよりヤンゴンへ
 *バゴーへの途中、ガイドの実家に招待され接待される
 *チャイプンパゴダ:バゴーの入口、高さ30mの四面仏
 *バゴー市内レストランで中華の昼食
 *シュエターリャウンパゴダ:全長55m、高さ16mの涅槃仏
 *シュエモードパゴダ:モン族のパゴダ、高さ114mで金ぴか
            近くに日本人遺族の寄進した鎌倉大仏あり
 *国営ホテルにチェックイン
 *市内レストランで中華夕食後ホテルに戻り宿泊

(9)2月20日(金) <バゴー→チャイティーヨ→ヤンゴン>
 *早朝6時ホテル出発、大型バスで約3時間、トラックバスで
   山道を約40分登り、更に頂上まで駕籠で(約3km)約30分登る
 *10:30チャイティーヨパゴダに到着。高さ8m、周囲24mの金箔を
   貼られた丸岩が断崖から落ちそうで落ちない
 *パゴダ近くのホテルで中華の昼食
 *帰途徒歩で下山、急坂でヒザが笑う。再びトラックバスで麓へ
   ついで大型バスで約4時間半、18:25ヤンゴンのホテルに到着
   ホテルで最後の晩餐の後、足もみマッサージを頼む

(10)2月21日(土) <ヤンゴン→バンコク→機中泊>
 *ヤンゴン市内で最後の観光
 *チャウッターヂーパゴダ:長さ69m、高さ17.7mの巨大な涅槃仏
 *シュエダゴォンパゴダ:黄金色に輝き巨大で誠に素晴らしい
 *ボージョーアウンサンマーケット:衣料品、宝石類が目立つ
 *市内飲茶で昼食
 *国立博物館:ミャンマー文化、伝統芸術、伝統工芸品の展示
 *13:50ヤンゴン空港着、16:30ヤンゴン発、18:15バンコク着
  22:55バンコク発、機中泊
(11)2月22日(日) <→成田→帰宅>
 *06:20成田着、荷物を受け取り解散、空港第二ビル→日暮里
   →蒲田→沼部で10:00帰宅。徹夜疲労の為暫く休養 (終わり)

[24日(火)] 画像処理その他で日が暮れる

 ミャンマー旅行のデジカメ写真の画像処理を昨日の内に200枚済ませたので、今日は残り455枚済ませて概要報告の予定であったが、意外に手間取り、更に他に雑用が飛び込んできたので、結局旅行概要は又1日先送りとなってしまった。

 今週の土曜に九州の佐賀県にある鳥栖市の青年会議所の幹部より面会を求められ、道州制について話し合いをすることになったので、我々がベースとした「日本再編計画」というPHP研究所から出ている図書を図書館に行って借りてきた。1996年の出版であり、数値的には現状と差異があるが、定性的には問題点の指摘など今日でも全く同様であることを再確認した。尚図書館に行った序でに正論の3月号をざっと一読した。

 ミャンマー旅行の概要で手間取っている一つの理由は、予定の訪問先の順番に変更があり、予定外の訪問がかなりあったことと、ミャンマー語に馴染みがないのでなかなか名前を覚えられないことが挙げられる。明日も午前中はでかけるが、午後になったら精一杯努力して報告をまとめたい。

[23日(月)] 身辺整理で1日過ごす

 昨日は旅行用品の整理とメール及びパソコン通信の整理で終わった。メールが68通で比較的少なかったが、返信及び仲間へ知らせるものが2件あった。パソコン通信は平成フォーラムで160件くらいあった。

 本日は旅行の概要を報告する予定であったが、留守中の新聞を読み、株式為替のチェックを行い、午後から一寸気分転換に散歩に出掛け、強風の中を多摩川の丸子橋を渡ったところで突然呼吸困難になってしまった。強風なので人通りもなく、休んでも一向に呼吸が楽にならず、一時途方にくれてしまった。やっと公衆電話にたどり着いて家に電話したが、留守とのこと。最後の手段として滅多に通らぬタクシーをようやく捕まえて帰宅し、喘息薬の吸入をしたら瞬く間に治ってしまった。一体どうなることやら心配したが、治ってみたらまるで嘘みたいであった。念のため休養したため、旅行概要の報告は翌日まわしになってしまった。

 夜になってデジカメの写真をパソコンに入れたら655枚であった。縦横を修正したり、暗い写真を明るくしたりの画像修正を始めたが、200枚で寝る時間となり、残りは翌日まわしとなった。既に写真を見たたげではどこの写真か分からぬものがあり、ノートの記録と添乗員のリポートと併せて調べる必要があるが、日本では見られぬ光景が随所に記録された。いずれ精選してホームページのフォトギャラリーに載せる予定である。

[22日(日)] ミャンマー大周遊11日間の旅から無事帰国

 2月12日(木)早朝に出発してから、2月11日の日記に記した通り、ミャンマー各地の仏教遺跡を訪ね、本日早朝成田空港に無事帰国した。昨夜から時差と飛行機の都合で殆ど寝る間もなく、午前10時頃帰宅してから一休みせざるを得なかった。

 正式の旅行記(異文化探訪記)とデジカメの写真集であるフォトギャラリーは整理次第追っても一つのホームページである「続々 GOLDEN AGE」に報告する予定であるが、概要は明日からこのホームページに記載する予定である。

 今回の旅行は、一言で表現すれば、念願の素晴らしい仏教遺跡群を間近に見ることが出来、久しぶりに感激の連続であった。ただ日程はかなりの強行軍で、午前5時出発が1度、午前6時出発が2度あり、1日中悪路でバスに揺られたり、トラックで1時間近く悪路を上下し、振り落とされないようにしがみついたり、700段もある階段を登ったり、1時間位坂道を登ったり下ったり、年寄りにとっては殆ど体力の限界に近かった。

 ただガイドブックに書いてあるような名所旧跡の実態だけでなく、ミャンマーの生活の実態に種々触れることが出来たのは収穫であった。ポッパ山の700段の階段を登るときなど、若いおそらく10代の女性が2名、両脇を支えながら頂上まで登ってくれたが、これが小遣い銭欲しさではなく、功徳を積むためということで、ほとほと感心した。また寺院やパゴダの中は裸足になるが、結構コンクリートのかけらなどを踏みつけることもあり、足の裏が痛かったのも今になってみれば良い思い出である。その他いろいろな経験をすることができたのは幸せであった。

 

[11日(水)] 建国記念日−戦後は遠くなりにけり

 今日は建国記念日で昔は紀元節と言った。戦前、戦中は家毎に日の丸の旗を掲げて祝ったものだが、戦後はとんと国旗を見かけない。本当か嘘か分からない神武天皇の即位が旧暦の1月1日で、それを新暦に直すと2月11日になると聞いたことがある。そんないい加減な話と昔は思ったが、それ程古い歴史を持っているのが日本という国である。万世一系にもいろいろと問題はあるが、とにかく専制君主でなくてこれほど長続きしている君主のいる国は世界のどこにもないことは確かである。

 小熊英二著「(民主)と(愛国)−戦後日本のナショナリズムと公共性」(新曜社2002)は960頁という単行本とは思えない大著で、主題は「戦後」におけるナショナリズムや「公」に関する言説を検証し、その変遷過程を明らかにすることである、と序章の冒頭に書かれているそうである。これを経済産業研究所の津上俊哉氏がA4版6頁に亘って読後感を述べている。

 筆者は1955年までの敗戦後10年間を「第一の戦後」、それ以降を「第二の戦後」と分けて、戦前、戦中、そして二つの戦後を、どういう年令、いかなる境遇で迎えたか? 共通体験が時代の心情を生んで行く様が描き出され、特に今日「戦後知識人」と呼ばれる人々がいかなる心情から何を発言したか、臨場感をもって再現されるとしている。

 日頃年令によって戦前、戦中、戦後の歴史感覚が随分と違うことを実感しているが、津上氏のような若い年代にとっては、このような図書を通じて生前の歴史を学ぶことになるのは致し方ない。それにしても私の感覚とは少し異なり、又小熊氏の挙げた戦後知識人が概ね左翼系であることもあり、具体的にどのような書き方をしたかは改めて原著を読んでみる必要があると感じた。

 明日より11日間ユーラシア旅行社のツアー「ミャンマー大周遊 11日間」に出掛けるため、日記は帰国までしばらくお休みになる。大筋は成田→バンコク→ヤンゴン→インレー湖→ポッパ山→バガン→マンダレー→ヤンゴン→バゴー→チャイティーヨ→ヤンゴン→バンコク→成田である。鼻水も幸いにして間一髪どうやら止まりそうである。帰国後日記及び写真をHPにアップしてから、小熊氏の著書を探して読んでみたいと思っている。

[10日(火)] イラク自衛隊派遣問題と道州制問題

 午前中静養しようと思ったが、隣の家の改築工事でコンクリートをガンガンと破砕する音がうるさくて寝ておられず、やむなく起きてしまった。ついでに荷物の最終整理とも一つのHPのコラムとして「イラク自衛隊派遣問題と道州制問題」を書いてしまった。

 イラクへの自衛隊派遣問題と道州制問題は一見何の関係もないように見えるが、実は密接に繋がっている問題点を指摘した。前者はイラクの人道・復興支援のため自衛隊を派遣することの是非を巡って、国連中心で行くべきか、日米安保条約中心で考えるべきかといった議論がされている。しかしこのような外交問題は、他国の都合ではなく、日本自身の国益を中心に考え、メリット・デメリットを明らかにして決断するのが普通の独立国の考え方である。

 一方道州制についても、権限の移譲をすれば責任を伴うのは当然のことであり、権限は欲しいが自立の責任はとれず、相変わらず政府の支援が欲しいというのは本末転倒である。又国の形を変えるのであるから、地方の改革と連動して国も改革を進めるべきなのに、地方にだけ問題を投げかけるのは方手落ちである。

 以上何れの問題も、普通の独立国の当たり前の考え方ができていないと言う面で共通している。早く敗戦国体制を克服し、敗北主義イデオロギーから脱却しなければならないが、問題の本質はむしろ如何にして普通の独立国に復帰するかということではないかと思う。 

[9日(月)] 津上俊哉氏の歴史理解に関する疑問

 昨日来鼻水がとまらず、近所の医院でみてもらったが、原因は分からず、取りあえず薬を貰って静養することにした。旅行の出発日も近づき、何とかそれまでに治したい。

 先月の27日に津上氏の著書「中国台頭」の読後感で、やはり同氏の歴史理解の問題点を述べたが、 「ヨーロッパ通貨統合−その成り立ちとアジアへのレッスン」(山下英次著)を読んで想うことという経済産業ジャーナル2003.8掲載の氏の論文を読んで、二つの問題点を感じた。

 一つはヨーロッパの歴史認識で、古くはゲルマンがやってきて広大なフランク王国をつくったり、神聖ローマ帝国になったり、現在でもどこもキリスト教文明であり、文字も共通であり、ヨーロッパが一体化する素地は昔からある点が無視されている。更に具体的にはベルギー・ルクセンブルグ・オランダ三国のベネルックスが共同体の走りであるのに全く触れていない。実際ヨーロッパ連合の諸機関は殆どこの3国にある。

 第二の問題点は中国に対する自虐史観である。「日本の対華侵略の歴史は疑いなく中国人に深い心の傷を負わせた」という表現は正しくない。日清戦争で日本に敗れ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシアに部分的に支配され、満州事変から日支事変当時は国内が分裂してまともな国家の体を成しておらず、ワシントン条約違反を散々やらかしたのは支那である。満州などは匪賊の支配する地域であった。そのような現実を無視し、又江沢民の反日教育に対し、何らブレーキを掛けないのは、やはり問題である。勿論当時著者は生まれていなかったから、教育か伝承でそのような考えになったのだと思うが、世代が変っても正しい歴史認識を如何に伝えて行くか、日本にとっての大問題である。

[8日(日) 自由主義、保守主義、社会民主主義]

 今日はゴルフ練習会の日であったが、旅行間近で風邪をひいたら困ると大事をとって欠席した。ところが昨日散髪したら、頭の後ろが寒くて今朝から鼻水が出てしまい、やむを得ず一日静養する羽目に陥った。旅行が近いので早く正常化する必要がある。

 日経新聞経済教室のやさしい経済学「福祉・環境・生命と政策」では千葉大の広井良典教授が面白い視点を提供してくれている。つまり社会保障(或いは広義の福祉)、環境、生命科学乃至生命倫理という三つの分野は、いずれも生活を営む広義の生命(Life)にかかわり、相互に密接に結びついている上、21世紀の社会や経済の新システムを構想する上で徹底的に重要である。

 ところが日本ではこれらの分野は互いに全く個別、独立に議論されており、場当たり的な対応に終始している。一方欧米先進国では、これらの分野への対応は政治哲学ベースである自由主義(米国)、保守主義(独仏など)、社会民主主義(北欧など)の理念をベースに議論されている。

 従来の日本は保守主義を基調としながら、「小さな政府、強い成長志向」を特徴とする米国モデルの影響を受けてきたが、今後は欧州モデルにも目を向けるべきだと筆者は主張している。しかし従来の政治哲学の三つの主義には一長一短があり、そのいずれかに集約することには抵抗感を覚える。むしろ欧米の考え方とは次元の異なる新しい日本的発想が求められているのではなかろうか?

[7日(土)] 侵略の世界史と日本の関わり方

 パソコンの調子がよくないのでデータのバックアップをとるが、うまくとれない所もある。そこで蒲田まで行ってLAOXを覗いてみたら、DYNABOOKなどもう新型に切り替わっていた。最近は価格.comというHPに安売りの価格が出ているので参考になる。

 所で昨日読んだ中で、やさしい経済学−歴史に学ぶ、として川勝平太氏が経済覇権国家の変遷を10回に分けてコラムに書いている。16世紀のスペイン、17世紀のオランダ、18世紀のフランス、19世紀のイギリス、20世紀のアメリカと経済覇権国家が変遷しているが、これは正に侵略の世界史でもあるが、これに日本がどう関わっていたか、は一寸面白い視点である。

 簡単に要点だけ述べると、16世紀には豊臣秀吉が明の征服を目論んだし、17世紀オランダの繁栄を支えたのは鎖国の日本であり、18世紀フランスでは農業が重視されたが、日本の農業が世界一の生産性を誇っていた。19世紀第1次大戦中英国が欧州で苦戦する間に、アジア市場に進出し、大英帝国の経済的基盤を切り崩したのが日本である。20世紀日米の歴史には対等ともみられる平行性がある。

 一方16〜17世紀に欧州では市民革命で資本家が、日本では武士が武力中心から学徳中心に変わり(士民革命)、経営者が準備された。その流れで日本で資本主義を動かしてきたのは資本家というより経営者である。経済覇権国家を目指す日本の出発点は明治維新にあるが、鉄砲放棄や士民革命、経営者革命などの先行条件は西洋にはなかった。産業革命も英国が資本集約型労働節約型なのに対し日本は資本節約型労働集約型勤勉革命であった。これらの淵源は東アジアの文明システムであり、その上に新たな世界的システムが出現する可能性があるとしている。

[6日(金)] なぜ日本は立ち上がれないのか?

 昨日迄で急いでやらねばならぬ仕事は何とか片が付き、あとは旅行まで体調の維持とパソコンの買い換えの為のデータの整理くらいになり、久しぶりに読書三昧の一日を送った。尤も社会保険庁から年金の金額改正の通知に関連して、確定申告を誤ったかと一時ひやりとしたが、調べてみたら間違いはなかった。

 色々興味のあるものを読んだので、感想を数回に分けて報告する事とする。先ず今日の午後散歩をかねて図書館に行き、雑誌正論を殆ど読み尽くした。中でも興味を覚えたのは福地惇の「なぜ日本は起ち上がれないのか、"詭道の達人"マッカーサーの呪縛」であった。その中で日本は未だに「敗戦国体制」であり、「敗北主義イデオロギー」から抜けきれないというネーミングは尤もだと感じた。日本国憲法や教育基本法が象徴的である。

 私自身右翼とは思っていないが、反左翼ではある。大東亜戦争を太平洋戦争と言い換え、侵略戦争と決めつける戦後の常識こそが異常であり、マッカーサーが解任されてから議会で証言したように、大東亜戦争は国家の大義と国益を死守するための防衛戦争である。大体ポツダム宣言は無条件降伏ではなく、占領政策や東京裁判は国際法違反であり、占領政策推進のため捏造した太平洋戦争史観をマッカーサーが日本の共産主義者を駆使して国民や教育に強制したものである。これは一種の思想改造戦争である。マッカーサーを「詭道の達人」と称する所以でもある。

 敗北主義イデオロギーに染まったまま、敗戦国体制を既に59年も続けているが、そろそろ世界の歴史と現実を冷静に捉え、意識も体制もまともな独立国になるべきであると信ずる。又いくら言論の自由と言っても反日利敵勢力は国益を損ずる限り、独立国としては懲罰するのが当然であろう。

[5日(木)] 丸一日眼の回るような忙しさ

 昨夜は道州制推進連盟の例会が蒲田の喫茶室で夜10時まであり、早く議事録を作ったり宿題を片づけないといけないと思いつつ、朝は一番で雪が谷まで出掛け、中国投資に関係する手続きを済ませる。外は寒いのに銀行の中は温度が高いのと結構歩くので、帰宅したら汗びっしょりであった。帰宅後パソコン通信を行い、メールの返事を書いたりしている内に昼になってしまった。

 午後から早速議事録を作成する。北海道や九州など道州制の活動の連携が増え、又土光杯学生弁論大会での列島解体論など若手の頼もしい発言なども紹介された。更に道州制専門の学者先生の紹介もうけ、連絡をとってみることとした。更に九州各県の知事さんへのアンケートや会員に対するアンケートなど検討したり、HPのリンクのチェックの担当を決めたりした。流れとしては次第に道州制が近付いたようにも見えるが、まだ地方の経済的自立に対して甘い議論が多いようにも見える。

 4時にはしばらく休んでいたソフトカイロ・マッサージに行き、旅行に備えて体調を整えに行ったが、身体が少し硬いと言われてしまった。帰宅してから北海道と先生の連絡先を調べて手紙を書き、又メールで九州のアンケートに意見を出したりした。この間いろいろなHPを調べたりしていたもので、昨夜最後に貰った資料を読む暇がなかった。

[4日(水)] 早くも立春、しかし風は冷たい

 暦の上では早くも立春を迎えた。天気は良いが、まだ風は相当に冷たい。水曜日の午前はいつもの通りアクアスパへ行く。自転車を漕いで、6種類の器械で筋力トレーニングをしてからプールへ行く。プールは温水で、長さは約20m、2コースしかない小さなプールであるが、殆どの時間独りで泳ぐ貸し切り状態である。バックで1往復、ついでクロール左右各2かき・1呼吸で1往復、クロール左右各1かき・1呼吸で1往復、再びバックで1往復、クロール無呼吸で往き、バックで戻る、というパターンを5回繰り返す。これで距離は1000mになる。変化をつけて飽きないようにしている。終わって温泉に浸かり、出てから休憩室でコーヒーを1杯飲んでから帰る。

 プールに入る前と出てから、風呂場で体重を測る事にしている。1月に入って体重が増えて困っていたが、今日は75kg〜74.4kgと久しぶりに75kgを割った。日曜日にゴルフに行って大叩きしたせいか、多分運動量が多かったのであろう。泳いでいても快調で、いつもクロール無呼吸がはじめの内は結構苦しいのに、今日は初めからすいすいと楽にこなせた。陸上のトレーニングも楽にこなせた、ということは体調が比較的よいということであろう。老骨にとってささやかな幸せの一時であった。

 午後から1月会計の不足部分を補い、中国投資に関連する書類を整理し、工業倶楽部の個人会費を 納入し、昨日に続いて2冊のガイドブックの再調査を行い、一応終了した。ただし、いくら読んでも、内容が豊富で頭に入りきらぬので、又時間があれば調べたい。

 夜は道州制推進連盟の例会に出掛ける。毎月第2水曜が原則であるが、会長と事務局長が海外に出かける予定なので、1週間前倒しにしてもらった。懸案事項がいろいろあるので、皆と相談してうまく片づけたい。内容は明日報告する。

[3日(火)] 再び旅行の準備に入る

 今日は節分、しかし池上の本門寺にでも行かないと気分はでないが、心の中で「福は内、鬼は外」を叫びながら、炒った大豆をむしゃむしゃと口にした。

 所で懸案の税務申告が終わったので、いよいよ本格的な旅行準備にとりかかった。まず第一に携帯用荷物の整理にかかった。ミャンマーは虫が多かったり、衛生状態が余り良くなかったり、停電が多かったり、持って行く薬がいろいろ必要だし、懐中電灯も必要になる。ただ気温は日本の初夏の気候なので、衣料品はそれ程多くはいらないと思われる。

 旅行社から最終日程表も届き、それに併せてA4版1枚にまとめた日程表を修正する。宿泊ホテルも大体は地球の歩き方で場所が分かったが、バガンとバゴーのホテルはガイドブックに見つからなかった。ついでガイドブックとして購入した地球の歩き方と旅名人ブックスのおさらいをしたが、丁度行程の半分くらいの所までしか済まなかった。又ABCに荷物もたのまなくてはならない。

[2日(月)] 税務申告あっさり完了、これで良いのか?

 1月31日に証券会社から届いた株式等の売却の明細の処置がよく分からず、所得税の確定申告の手引きをもう一度詳しく読んでみたがよく分からず、証券会社にも聞いてみたがやはりよく分からず、 税務署に聞いてみるより仕方ないかなということになった。

 丁度贈与税の申告が2月1日からとなっているが、1日は日曜日なので、実質今日が初日である。これは伊香保の山林、といっても普段固定資産税がかからない程度の小規模のものであるが、時々状態を見に行く必要があり、もはや高齢者の手に負えないので息子に贈与したものであるが、息子が海外に長期出張中なので、代理で納税管理人として僅かばかりの贈与税を申告し、納税した。おかしいのは申告書を貰った時には評価証明書と印鑑が必要と言われ、わざわざ伊香保の町役場から評価証明書を取り寄せたのに、いざ申告の段には、そんなものは不要といって戻され、印鑑も不要であった。

 序でに株式等の売却に伴う処置について、税務署の税理士に聞いたら、社債は手続き不要と言われた。そこで証券会社の通知を見せて、よく調べてくれといったら、あんちょこを調べて新株予約権付社債は株式と同じ扱いであることが分かり、申告書と付表の書き方を指導してくれた。ただ損失の場合は所得税としてはゼロで、損益通算ができるとの事であった。(後で証券会社に聞いたら、今年から税制が変わった由。) そこで雨の中近くのコンビニに行って証券会社の通知のコピーをとり、併せて準備していた青色申告と確定申告を修正する必要がなくなったので提出した。本当は2月16日からであるが、2月12日から海外へ出掛けるといったら、簡単にそれでは結構ということになった。

 という次第で、案外あっさりと平成15年度の税務申告が終了してしまった。確定申告の添付書類は受け取ってくれたが、青色申告の方は保険以外は家で保管しておいて下さいと言われた。そこで帰宅後税務申告に関連する資料をそれぞれ分類してファイルにおさめ、整理して一件落着となった。税務署はあとでゆっくりと調べるのであろうが、どうも形式的で、証拠書類も不充分なままでOKが出てしまい、何か気が抜けた感じかした。

   

[1日(日)] 久しぶりのゴルフ、3パット頻発で大叩き

 今日の天気は2〜3日前までは晴で最高13℃と言っていたが、今朝の予報では晴で10℃に下がり、しかも東京の朝は曇であった。どうも最近の天気予報はあまり精度がよくない。気温が低いと風邪を引く確率が高くなるので、10℃以下の時はゴルフに出掛けないことにしている。そのような次第で、今年はゴルフに行くのは1月4日以来2度目である。(こんな怠け者では駄目だね)

 朝の8時20分頃家を出て、環八、東名経由で本厚木CCへついたのが9時5分頃、道路も比較的空いていて順調であった。打ち放しで少し練習し、これからショートアプローチ、ついでパットの練習をしようと思っていたら、早くも呼び出しをうけ、3人組の中に組み入れられた。といっても古いメンバーなので顔は知っているが、早くも予定が狂ってスタートということになった。

 アウトからスタートしたが、午前中は気温が低かったせいか、鼻がつまり、耳が遠くなったり、多少風邪気味かなと心配されたが、午後は暖かくなり、無事18ホール完走できた。ところが1ヶ月ぶりなのと、スタート前に練習で調整できなかったせいか、飛ばすショットはまあまあのできであったが、ショート・アプローチで数回ミスし、パットに至っては、アウトで2回、インでは6回も3パットしてしまった。今まで3パットは滅多にしないので、その分大叩きの新記録になってしまった。やはりゴルフは飛ばせばよいのではなく、きちんとホールにボールを入れなければいけないので、これから再びまじめにアプローチとパットの練習をする必要があると痛感した。しかし久しぶりに芝生の上を歩いて気分は爽快であった。

 


















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